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第五話 水底の約束

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-24 17:38:10

「……生きてる?」

ことねぇは川岸にしゃがみ込み、恐る恐る男の顔を覗き込んだ。

瀬川遥人。

村の診療所に勤める医師で、つい先ほどまでイズミと話していた人物だった。

その遥人が、今は全身ずぶ濡れで横たわっている。

「先生?」

イズミが呼びかけた。

返事はない。

ことのが膝をつく。

「息は?」

「待って。確認するわ」

イズミは遥人の呼吸を確かめた。

胸が、かすかに上下している。

「……ある」

「よかった!」

ことねぇが胸を撫で下ろした。

けれど、イズミの表情は晴れなかった。

遥人の唇は青白い。

呼吸も浅い。

「救急車、呼ぶね」

ことのが携帯電話を取り出す。

イズミは頷き、遥人の体を横向きにした。

「先生、聞こえますか?」

そのとき。

「……う」

遥人の眉が動いた。

「先生!」

イズミが身を乗り出す。

遥人はゆっくり目を開けた。

「……三田村、さん?」

「はい。私です」

「よかった……」

彼は弱々しく笑った。

「あなたが……無事で」

イズミは言葉を失った。

なぜ、彼が自分の心配をするのだろう。

川に落ちたのは遥人なのに。

「先生、今は喋らないでください」

「……はい」

遥人は目を閉じた。

ことねぇは二人を交互に見た。

「…………」

ことのが小声で尋ねる。

「何?」

「いや」

「何」

「……これ、恋愛イベントじゃない?」

「今?」

「だって!」

「救急車待ってるんだけど」

「分かってるよ!」

ことねぇは口を尖らせた。

こんな状況でふざけるべきではない。

それくらい分かっている。

けれど、怖かった。

昨夜、男が死んだ。

今日は別の男が川に落ちた。

しかも、どちらも自分たちと関わった直後だった。

偶然だと思いたかった。

そうでなければ。

「……お姉ちゃん」

ことねぇが小さく呼んだ。

イズミは遥人のそばから離れず、顔だけを上げた。

「なあに?」

「さっきの手、見たよね」

イズミの指が止まる。

「……ええ」

「川から出てきた、白い手」

「見たわ」

「先生を助けてくれたんだよね?」

イズミは答えなかった。

ことのが川を見つめる。

先ほどまで荒れ狂っていた水は、今では穏やかに流れている。

水面には青空が映っていた。

「……人間の手じゃなかった」

ことのが呟いた。

「どうして分かるの?」

ことねぇが尋ねる。

「大きすぎたから」

「…………」

「それに、腕の先が見えなかった」

ことねぇは川を見た。

「……やめて」

「何を?」

「怖いこと言わないで」

「事実だけど」

「事実が一番怖いんだよ!」

イズミが二人を見た。

いつものように笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。

胸元の守り袋。

薄青色の布に、銀色の水紋。

その模様が、かすかに光っている。

イズミはそっと手で覆った。

「……あなたなの?」

誰にも聞こえないほど小さな声だった。

返事はなかった。

ただ、川面を渡る風が、彼女の頬に触れた。

やがて救急車が到着した。

遥人は病院へ搬送され、三姉妹は神社へ戻った。

社務所では祖母が待っていた。

「瀬川先生は?」

「意識は戻りました。病院で診てもらっています」

イズミが答える。

祖母は安堵したように息を吐いた。

「そうですか……」

ことねぇは祖母の前に座った。

「おばあちゃん」

「何ですか?」

「川から手が出た」

祖母の表情が固まった。

「……手?」

「うん。白くて、すっごく大きい手」

ことのも頷いた。

「先生を川岸まで押し上げた」

祖母はイズミを見た。

「イズミ」

「はい」

「お守りを見せなさい」

イズミは胸元から守り袋を取り出した。

祖母はそれを受け取ると、しばらく黙って見つめていた。

そして。

「……やはり」

小さく呟いた。

ことねぇが身を乗り出す。

「やはり何?!」

「ことねぇ、静かに」

「だって、気になるじゃん!」

祖母は守り袋をイズミに返した。

「これは、あなたが幼いころから持っていたものです」

「……はい」

「誰からもらったか、覚えていますか?」

イズミは首を横に振った。

「いいえ」

「そうでしょうね」

「……どういう意味ですか?」

祖母は答えなかった。

代わりに、三人を見渡した。

「今夜から、日が沈んだあとは神社の外へ出てはいけません」

ことねぇが目を丸くする。

「えっ、門限?!」

「そうです」

「何時?!」

「日没です」

「早っ!」

「ことねぇ」

イズミがたしなめる。

「今はおばあさまのお話を聞きましょう」

「はーい……」

祖母は続けた。

「それから、山の中腹にある古い祠には近づかないこと」

ことのが顔を上げる。

「昨日、篝火が灯った場所?」

「……そうです」

「どうして?」

祖母は目を伏せた。

「今は、まだ話せません」

ことねぇは唇を尖らせた。

また、それだ。

恋愛禁止の理由も。

山に灯った炎の正体も。

川から現れた手のことも。

大人たちは、何も教えてくれない。

「……じゃあさ」

ことねぇは祖母を見つめた。

「私たちが何かしちゃったら、また誰か死ぬの?」

部屋が静まり返った。

イズミが息を呑む。

ことのも顔を上げた。

祖母はすぐには答えなかった。

その沈黙が、何より怖かった。

「……おばあちゃん?」

「あなたたちが悪いわけではありません」

祖母は静かに言った。

「ただ、力が目覚め始めているのです」

「力?」

「三田村家の巫女が、代々受け継いできたものです」

「じゃあ、昨日の人は……」

ことねぇの声が震えた。

祖母は首を横に振った。

「まだ、分かりません」

そして、ことねぇの手を取った。

「だからこそ、感情に任せて誰かを傷つけたいと願ってはいけないのです」

ことねぇは俯いた。

――大嫌い。

昨日の自分の声が、耳の奥で蘇る。

本当に、自分のせいだったのだろうか。

もしそうなら。

これから先、誰かを好きになることも。

嫌いになることも。

怖くなってしまう。

「……私」

ことねぇは小さく呟いた。

「もう、誰のことも嫌いって思わない」

イズミがそっと肩に触れた。

「無理をしなくていいのよ」

「でも……」

「怒ることも、悲しむことも、悪いことではないわ」

ことのも隣に座った。

「そうだよ」

ことねぇが顔を上げる。

「ことの……」

「お姉ちゃん、毎日何かしら怒ってるし」

「ちょっと?!」

「それで毎回人が死んでたら、村に誰もいない」

「慰め方!!」

イズミが吹き出した。

ことねぇも、つられて笑った。

ほんの少しだけ。

胸の奥が軽くなった。

その夜。

イズミは自室で、薄青色の守り袋を見つめていた。

昼間、川から現れた白い手。

耳元で聞こえた、低い男の声。

――その男から離れろ。

そして、遥人が助かった瞬間に感じた温もり。

イズミは守り袋を胸に抱いた。

「……あなたは、誰なの?」

窓の外では、月が輝いている。

その光が、守り袋の銀糸に触れた。

淡い青色の光が広がる。

イズミは息を呑んだ。

銀糸が、ゆっくりと形を変えていく。

水の模様だと思っていたもの。

それは。

長い体をくねらせた、一匹の龍だった。

「……龍?」

その瞬間。

イズミの脳裏に、見知らぬ光景が流れ込んだ。

青く澄んだ水。

白い花が咲く庭。

そして、銀色の髪をした男の背中。

『イズミ』

懐かしい声がした。

『必ず、迎えに行く』

胸が締めつけられた。

理由も分からないまま、涙が頬を伝う。

「……待って」

イズミは守り袋を握りしめた。

「あなた、誰なの……?」

光が消えた。

部屋には、静寂だけが残った。

遠い神域。

高龗は、水面に映る妻の姿を見つめていた。

彼女が涙を流している。

それでも、今は触れられない。

「……すまない」

彼は静かに目を閉じた。

「約束を守れぬ俺を、許してくれ」

水面に、一滴の雫が落ちた。

そして、神域の奥で。

古い鐘が鳴った。

ゴォン――。

高龗が目を開く。

水面に映っていたイズミの姿が、突然かき消えた。

代わりに浮かび上がったのは、篝火村の山。

昨夜、炎が灯った古い祠。

その扉が。

内側から、ゆっくりと開こうとしていた。

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